ひき出しのようなブログ

主に映画の感想。忘備録のようなもの。

飲み会の憂鬱 ~喋ることに憶病になった27歳~

仕事終わりに、仕事とは関係なく現在動いているプロジェクト(というと大そうなモノに聞こえるが無駄の極致のプロジェクト)のメンバー達と居酒屋に行った。

12、13人いた場だったのでトークテーマもコロコロ変わっていたけど、基本自分は話を聞く、受けの立場にまわっていた気がする。楽しかった。確かに楽しかった。けど、帰宅してから振り返ってみると、「あれ? いつ頃から、こんなにも喋らなくなったんけ」と自分の無口さが奇妙に思えた。

振り返れば、大学生の時はもっとベラベラと自分語りをしていた気がする。7.8年前の僕は、「俺、洋楽が好きやねん」と話して、「えー何が好きなん」って聞かれたとき、「ニルヴァーナ」ってすまし顔で答えてしまう類のピュアさがあったんやと思う。自分がどう受け止められるか客観視できてないが故の突進力。人によっては嫌われてたけど、僕の人となりを知ってくれて好いてくれている人も確かにいた。けど、今はどうなんだろう。無味無臭だ。一体誰が今の僕に興味を持ってくれて、もっと仲良くなりたいと思うんだろうか。ずっと「俺のターン!」的な人はやっぱり嫌だしなりたくないし、大学時代の自分には他人がどう受け止めるのか少しは気にしろよ!と言いたいけども、飲み会の席に居ても居なくてもいいような今の自分はもっと魅力がない気がする。

何で、こんなに喋らなくなっちゃったんだろうか。それは、サラリーマンになってから、「俺の話を聞け!」的な人にたくさん会ってきたのが原因かもしれない。話す時間、余地を一切与えてくれない会話の一方通行を何回も何回も経験し嫌な思いをしてきたらこそ、自分が話し始めるときすごく相手を意識するようになったのだ。「喋りすぎかな?」「退屈にしていないかな?」と考えるようになった、これ自体はイイことだと思うけど、自分の場合はそれがイキすぎた気がする。相手に退屈に思われたくないがゆえに、喋ることに怯えてしまっている。なんとも馬鹿げた倒錯だ。

もっと僕を知って欲しい。今の自分は、その気持ちを素直に出していったほうがいいんじゃないだろうか。「相手を知りたい」「自分を知って欲しい」、その両方のバランスがうまく取れた時、会話は楽しくなる。「自分を知ってもらう」ことを放棄していては、深い意味での信頼は絶対生まれないしね……多分。

話題の新感覚美術館「チームラボボーダレス」に行ってきた

今年の6月にお台場に新しくオープンした話題の美術館「チームラボ ボーダレス」に行ってきました。入場料は3,200円、僕は7月末のオープン記念割引期間に行ったので2,400円だったが、それでも高い! けど、3,200円払ってもう一度来たいと思えるくらい、スーパー楽しかったです。


チームラボのコンセプトは、公式によると……

アートは、部屋から出て移動し始め、他の作品とコミュニケーションし、他の作品と境界がなく、時には混ざり合う。そのような作品群による、境界のない1つの世界、『チームラボボーダレス』。

境界のないアートに自らの身体を没入させ、作品群からできた世界を自らの身体で探索し、他者と共に新しい体験を創り出していきます。

520台のコンピューター、470台のプロジェクター、10,000㎡の圧倒的なスケール感と、複雑で立体的な空間が特徴の世界に類を見ない全く新しい世界です。

 

ということで、インタラクティブアートが好きな僕としては、ど真ん中な内容。


入ると、いきなりインスタ映えしそうな空間が広がります。

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#teamLabBorderlessでインスタグラム内を検索かけると、イイ感じな写真がいっぱい挙がってます。



僕もここぞとばかりに写真を撮る。
普段は斜に構えて、美術館で写真を撮らない自分も、雰囲気に流されてシャッターを切る。

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個人的なお気に入りは、「鳥獣人物戯画」っぽいこの作品。

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どこで展示されているわけではなく、会場の壁を練り歩いてます。
触ると、吠えたり、こちらを向いたり反応するのも楽しい。

チームラボの作品を観るのは実は初めてでしたが、日本人が持つ風土、原風景、精神性をいかにデジタル技術で再現するかって感じが好みでした。

仏教の考えである「縁起の理」―すべての存在はお互いに関係しあって依存し合いながら存在する―を想起させましたね。猪子さん(チームラボの代表)が、どういう考えで作品を作っているのかWEBのインタビュー記事とか雑誌で語っているはずなので、色々読んでみたくなった。

大人気でチケットも売りきれているようですが、オススメです!
ただ、美術館と違って一人で行くと少し寂しいかも……。。

【感想】カメラを止めるな! ~熱狂を感染させるゾンビ映画~

学生時代、僕は自主映画制作に熱中していた。

特に3回生の時は大学の外に飛び出して、それこそ自主映画の世界でトップランナーの監督のもと、映画制作に関わったりもした。陳腐な言い回しになってしまうが、今思い返せば「最高に楽しいときだったな~」と思える。『カメラを止めるな!』は、その映画を作っていた時のことを思い出しながら、ノスタルジックな気持ちで鑑賞した。 


映画『カメラを止めるな!』予告編

 

カメラを止めるな!』。この映画はホラー映画なんて紹介されたりするが、多くの人はコメディ映画として観るだろう。いわゆる漫才でいう和牛式(もっと遡れば麒麟式ともいうのかな?)、前半のおかしな部分をもう一度再現し最後に回収することで、大きな笑いを生みだす構造になっている。劇場もドッカンドッカン笑いが起きて、それをみんなと共有するのは、すごく楽しい映画体験だった。

 

非常にわかりやすく笑えるポイントが作ってあり、それが人を選ばずに評価されているゆえんだと思うけど、僕的にグッと来たのは「いかに熱狂を伝播させていくのか」という所だ。ゾンビ映画を作っている主人公は、登場人物たちをゾンビ感染させていくのではなく、熱狂を感染させているという物語の構造になっていると思う。

 

じゃあ、それがどういう熱狂なのか。それは、「80点ではなく現時点で出せる100点を出す」というクリエイターの本能。面白いモノを作ろうよ!というシンプルかつ強固な姿勢だ。この映画では、「制作者と発注者」「父と娘」の対立を通して、何度も理想論(100点を出そうという気持ち)と現実論(完成させるのが、まず第一)という姿勢がぶつかり合う。ただ、どんな仕事であれ2.3年以上仕事の経験がある人なら誰でもわかる自明のことだが、理想論の貫徹は難しい。一般的にも、現実路線こそプロフェッショナル、という論調の方が強いと僕は思っている。だからこそ、後半の熱狂の感染が心に訴えかけるものがあるのだろう。娘の最初の登場シーンでは、「こいつ世間知らずの馬鹿だな~」なんて思ったりしていたのに(笑)、『ラ・ラ・ランド』のようなラストのシンプルな父と娘の視線の交錯には「イェーイ!」とはしゃぎたくなった。

 

映画とは「関係性の変化を楽しむもの」というのが僕のモットーであるので、それが分かりやすい対立の形で表象されており、さらにめっちゃ笑えるというのだけでも、『カメラを止めるな!』は僕的に最高の映画だった。けどもっというと、泣きそうなくらい感動したのは実はその部分ではない。ワンシーンワンカット30分の低予算映画を作っている」という題材に対してだ。 

アルカトラズからの脱出 [Blu-ray]

アルカトラズからの脱出 [Blu-ray]

 

昔何かの映画コラムで、「登場人物の欲望がシンプルなほど、映画の強度が増す」みたいな文章を読んだことがある。例えば、『アルカトラズからの脱出』なんかでは、何としてでも脱獄する!しか、映画内では描かれない。なるほど、その直線的な行動のパワーがこの映画の面白さなのか、なんてことを思った記憶がある。

 

さて、『カメラを止めるな』だ。この映画は、『アルカトラズからの脱出』のようにシンプルな映画ではない。内田けんじ監督の『運命じゃない人』のようにトリッキーな映画である。じゃあなんで、わざわざ欲望の話をしたかというと、インディーズ映画を作るということが、「シンプルで直線的でパワーのあふれた」行為なんじゃないかと僕が思っているからだ。さらに、多くのスタッフが同じ方向をしっかり向いていれば(面白いものを作りたいと欲望を持っていれば)、そのパワーも一際増すことだろう。『カメラを止めるな!』は、そういうことを題材にしている。だから、推進力があり面白いのではないだろうか。

※インディーズ映画を作るのはパワーのある行為だから、面白い映画ができるというわけでは決してない。あくまで、映画内の登場人物たちの欲望の話ね。

 

ちなみにこの記事の冒頭に挙げた、僕が参加した映画も37分1カット長回しの映画だった。ほぼ演劇みたいなモノなので、何日もリハをしたし、スタッフの動きも綿密に打ち合わせた。フレームの外で、動き回るスタッフ。みんながいいものをしようと行動する。一軒の家を舞台にして撮影が行われたが、あの空間はエネルギーに溢れていて、僕も今まで感じたことない気持ちに満たされていた。

 

それはメジャー映画の制作現場でも、一緒だったんじゃないかと言われるかもしれない。確かにそうかもしれない。ただ、インディーズ映画は必然的に観る人もメジャー映画に比べて少ないし、言い方は悪いが「社会的にあまり役に立たない」とされるものが多い、という点で違うとはいえる。「作っている人が生きるために必要なお金を稼ぐ」という面でも、期待できない。なぜ作るのか? 作りたいから!としかいいようがない。そういった得体のしれない欲があったからこそ、僕は幸せを感じたんじゃないかと思う。(断っておくが、社会的に役に立たないものこそが人生を豊かにすると思っているので、役に立たないとされることは否定しているのではないです!)

 

カメラを止めるな!』は、過去の経験を思い返させ、そういった幸福の瞬間を想起させてくれた。特に、ラストのエンドロールは、美しい欲の集積(いいものを作ろうという一体感)が見られて泣けてくる。それは、僕が自主制作映画に携わっていたからなのか、他の人がどう感じたのかは分からない。でもいえるのは、僕にとって『カメラを止めるな!』は多幸感があふれる映画だったともに、「また映画製作に関わりたい」と思える感染力のある映画だった。

【感想】モヤモヤするあの人 常識と非常識のあいだ

モヤモヤするあの人 常識と非常識のあいだ (幻冬舎文庫)

僕がツイッターをやっているせいなのか、どうも最近、自分が納得いかないことに対してやたらと攻撃的な態度を表明する人が増えた気がする。ちょっと前まで「連帯」やら「オールジャパン」がフィーチャーされていたのに……、タイムラインは今やどこ吹く風といった様子だ。多くの人が、自分たちが持つ「常識」の殻に閉じこもってしまったのか。それも分厚くてトゲトゲの殻に。

 

 

そういう思いが強くなって何だか歯がゆいな~と感じやすくなったこの頃、この本に出合った。『モヤモヤするあの人 常識と非常識のあいだ』。そして僕は、すっかりこの作者のことが好きになってしまった。

 

 

「モヤモヤするあの人」とはいかにも日常エッセイ的なタイトルであり、イラストもその印象を助長するのだが、この本はかなり広がりあると思っている。僕が最初に述べた「攻撃的な空気の萬栄」に対する処方箋になるとも思った。

 

 

本書は、表紙になっている「スーツにリュックを合わせる人」といった何だかちょっとモヤモヤする人たちが30タイプ挙げられており、それを6ページ前後で言及する構成になっている。そこに登場するのは、「社会規範よりも自分の考えを大事にするタイプ」だったり「自分のコミュニティ以外見えていないタイプ」だったり、「とにかく自分に自信があるタイプ」など。僕らの心に靄をかける、色んな価値観を持つ人が現れる。そして、時に共感したり、時にドキっとしたり、読者が自分の価値観と向き合う作りになっているのが面白い。

 

この本を読んで僕が特にほんわかさせられて、本に広がりがあると思ったり、「攻撃的な空気」への処方箋になると感じたのは、モヤモヤ人に言及する著者の姿勢だ。こういうタイプの本って取り上げる対象に一方的に苦言を呈する作りになっていることが多いけれど、本書はなるべく両側(モヤっとさせる人と、モヤっとさせられる人)の声を届けようという意思がみえる。イベントで著者が「僕ってなかなか人を嫌いにならないんですよ。(違う価値観を持っている人には)インタレストが向くんです」的な事を話していたが、まさにその性格が本にも現れていると感じた。なので、自分の常識に合わない人を叩いて自己を確立していく、そんな本を求めている人には物足りないと思う。あくまでテーマは「常識と非常識のあいだ」なのだ。

(おっさん的な価値観を持つ人とはさようなら、とはこの本は言わない)

 

 

さらに、そうような姿勢で人物をスケッチするだけでなく、自分はどう思うのか最終的に態度表明しているのもイイ。僕が一番モヤっとさせられるのは「まぁ、人それぞれやからね。ええやん」という寛容で優しい人なんだが、著者がそういう人ではなくてよかった(笑)。まぁ、中には結論をぼやかしていたり、絶対理解できない!という態度を表明していたりするトピックスもあるので、戦略的というよりあくまでナチュラルなのかもしれないけど……。

 

読み終えて、僕が大学で社会学を通じて学んだ「全ての物事は多面的である」という大事な事を思い出されてくれたし、「えっこれが常識なの」って人に出会えたのもよかった。ただちょっとあるある系が多いような気がしたので、パート2が出るならもっとパーソナルでマニアックなモヤモヤを増やして欲しいかも……。

 

ともあれ、この本の内容は飲み会のネタにもなるし、知らないうちに鋭くなった自分のトゲを削いでくれるかもしれないのでおススメです!

 

※ちなみに、僕は焼き鳥の串は外したくない派であり、ライブで歌う派です……。モヤっとさせて、すみません!!(本書のネタより)

 

モヤモヤするあの人 常識と非常識のあいだ (幻冬舎文庫)

日本とフランスの難民支援の現状 ~難民支援協会のシンポジウムに行ってみた~

6/21日、東京・飯田橋のアンスティテュ・フランセにて、NPO法人 難民支援協会のシンポジウム「フランス視察報告 ~難民のために働く多様な関係者の出会いから~」が行われてたので参加してみた。

 

話の主な内容は、フランスの難民支援の現状と日本の現状。

何となく「日本の難民支援は成熟していない」というイメージを持っていたけど、フランスがどのように難民と向き合っているか、比較した話を聞けば聞くほど「ここまでヒドイのか……」と唖然してしまった。こういう話を聞くと、日本はまだまだ豊かじゃないんだなぁと思ってしまう。具体的に、出てきた話を挙げてみる。

 

■フランスの難民支援

・難民申請者の生活は、「国の責務として」支援。1日6ユーロ(約700円)と住居を提供。住居が提供できない場合は、30ユーロ(約3600円)を支給

※難民申請は結果が出るまで、平均2年半くらい(日本の場合は)かかるらしい

 

・1次審査も2次審査も政府から独立した組織が行う(日本は政府管轄)

 

・ホームレスのための緊急電話が用意されている。電話をすれば、シェルターが提供される

 

・支援型のNGOには、フルタイムで5000人働いている組織も(難民支援協会は、30人弱だと思われる……)

 

・難民や移民の人達と、サッカーなどの趣味等で繋がれる場の充実。支援ではない形で、同じ社会の一員として接する思想が形成されている

 

■日本の場合(悪い面を中心に)

・昨年2017年の難民認定者数は、19628人の申請に対して20人。まさかの0.1%

こちらは2016年のデータだが、ドイツは41%(263,622人)、アメリカ62%(20,437

人)、フランス20%(24,007人)……と見ていくと、どれだけ異常か分かるだろう。ちなみにお隣の韓国も1%と低いが、難民支援の機運が高まってきているらしい。

 

・難民申請者のセーフティネットがほぼゼロ。なので難民申請した後、結果が出るまでの約2年半の間、ほったらかし状態。しかも就労するのに条件が厳しいので、必然的にホームレスになってしまう人が多い。

 

・滞在ビザを持たない外国人を収容する施設への、収容の妥当性の検討する独立機関も収容の上限もなし。フランスは、収容されてまず48時間以内に裁判官が、その後も1週間ごとに継続的に審査され、収容の上限も定められている。

 

↓こんな記事も見つけた。

人を人として扱わない、悲しいけどそういう状況のようだ。

 

今、難民支援協会がセーフティネットの拡充や支援を行っているが、政策面で何とかしないとマズイよね……。

 

フランスも自然発生的に支援が重層的になっていたのではなく、市民社会が動いて機運を高めていったと話していたので、NGONPOを務める人だけでなく、関心がある人が少しでも動いていかないといけないんでしょうね。自戒も込めて

『ザ・スクエア』の感想。

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観終わったあと、心臓バクバクしていた

 

ザ・スクエア』は、昨年カンヌ国際映画祭パルムドール(最高賞)を獲得した映画だ。前々年パルムドールの『わたしは、ダニエル・ブレイク』や、今年頂点を勝ち獲った『万引き家族』と同様に現代社会の問題を観客に投げつけてくるタイプの作品である。

 

 

だが描かれるタッチが全く違う。それゆえ、僕はこの映画が大好きだ。

『わたしは、ダニエルブレイク』や『万引き家族』も好きだけども、この映画は傑出していると思っている。

 

 

では、何がこの作品の特徴なのか。

先ほど挙げた2作品はわりとド直球でテーマをぶつけてくる映画だったが、『ザ・スクエア』は皮肉に満ちている。ここがこの映画の最大の特長。

 

 

わたしは、ダニエル・ブレイク』や『万引き家族』を観て抱いた感情は「このどうしようもない社会に対して怒り」や「悲しみ」のようなモノだったが、『ザ・スクエア』はもっと切実な感情を抱かせてくる。「この振る舞いが笑えるんだけど、これ自分にも当てはまらないか?」といった具合に。全編を通してアイロニカルな視点で描くことによって、安全な位置にいる観客を脅かすような映画になっていると思った。

 

 

この映画の主人公は現代美術館のキュレーターで、現代美術が物語の大きな装置となるのだが、その描かれ方のタッチ自体が現代美術的(鑑賞者を異化させる)と言ってもいいかもしれない。ちなみに痛烈な作風で人気の会田誠が、この作品を観て「俺が作ったかと思うくらいの嫌味」とツイッターで呟いていた……。

 

会田誠ツイッター

 

■作品のメインテーマは断絶?

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(C)2017 Plattform Prodtion AB / Societe Parisienne de Production / Essential Filmproduktion GmbH / Coproduction Office ApS

 

また、描かれている内容も非常にクリティカルだと思った。

 

ザ・スクエア』は、骨太な一本筋の物語ではなく、いくつかのエピソードを集めて物語が構成されているが、それぞれのエピソードにほぼほぼ共通していえるのが、「他者との断絶」だと思う。

 

イクラスに所属している主人公(現代美術館のキュレーター)は、金銭的にロークラスの所属している人間を生理的に避けてしまう、見下してしまう。主人公が携帯と財布を盗まれてしまい、貧困地区のマンションに向かう際、「俺達は正義だ」とはしゃいでいたのが、いざ着いてみると相手の顔が見えない(想像できない)のにビビってしまう。経済的な格差だけでなく、精神的な断絶が映画の至る所で表現されている。

 

しかも、この映画が面白いのは、そういった「自身と他者の間に」決定的な断絶があると主人公は自覚しているのにも関わらず、それを認めることができない所だ。どういうことか。

 

 正直にいえば主人公のキュレーターは、「育ってきた環境や今いる環境が、自分と大きく違う人とは話が合わない」と思っているはずだし、もっと言い方をキツくすれば「自分と違う人とは付き合いたくない」と根っこの部分では考えているはずだと思う。しかし、現代アートキュレーターという立場が、その意思表示をすることを認めない。アートに携わる者は、寛容さや、他者理解を深めようとしている姿勢が必ず求められるからだ。

 

 

そして、これは僕の個人的な印象が強いかもしれないけれど、カルチャーに関心が強い人はリベラルな人が多い。弱者への思いやりがない人や政府の政策に対して、怒りを燃やしている呟いている人をツイッター等で散見できる。「寛容でなければ、人間として未熟だ」といわんばかりに。でも本当に、自分自身も寛容だといえるのだろうか? この映画は、そんな皮肉を投げつけているように思えた。かくいう僕自身もリベラル思想に傾斜しているし、グサっと来た。僕はこの映画の登場人物になったら、物乞いの人に優しくできるだろう? 憐みではない目で彼らと接することができるだろうか?

 

ゆえに、この映画で主人公がスーパーにいる物乞いを信頼して荷物を預けるシーンがあるのだが、そこがたまらなく好きだ。

  

■最高スリリングなシーン

途中でも述べたが、この映画はいくつかのエピソードを集められて構成されているため、断絶以外のテーマもある。最後に、前述した主人公と物乞いのスーパーのシーン以外で、印象的シーンについて触れておこうと思う。それは、美術館関係者を呼んだパーティ会場での出来事。ウルフマンと呼ばれるアーティストがパフォーマンスするのだが、その5分くらい?のシーンがたまらなくスリリングだ。何か事件が起こっても誰か他の人が助けるだろうと見て見ぬふりをする都会のハイクラスの人を皮肉ったシーンが劇中に何度も登場するが、このシーンはその集大成?的な場面。ここでも、登場人物達に腹が立つと同時に、自分だったらどうなるんだろう……と冷や汗をかいた。

 

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(C)2017 Plattform Prodtion AB / Societe Parisienne de Production / Essential Filmproduktion GmbH / Coproduction Office ApS

 

この映画は、映画好きの友達全員には薦められない。けれど、映画に没入させず、かといって完全に客観視させず、付かず離れずのカメラワークとか最高だし、僕はめっちゃよかったな……。

どこまでが、自分と関係のある人?『希望のかなた』が僕に与えた影響

 渋谷を歩いていたら、東南アジアの人に「すいません」と話しかけられた。手にはノートを持っていたので、何かの募金を集める人だとすぐ分かった。だから僕も「すいません」と会釈して、そのまま立ち去った。

 

何でか分からないけれど、その事が1週間経っても印象に残っている。

 

恐らく、今まで似たような人に何度も話しかけられているはずなんだけど、その事は全く覚えていないのにだ。というより、本当にそういった経験があるかどうかすら、記憶にない。今まではそれくらい、どうでもいいこととして淡々と流れていっていたんだと思う。

 

でも今回は、「ぞんざいな対応してしまったのかもと少し後悔しているのか、日記に書くくらいに「どうでもよくないこと」として捉えている。恐らく募金詐欺だろうなと頭で分かっていながらも……。

 

 

今年の初めに、『希望のかなた』というアキ・カウリスマキの映画を観た。フィンランドに流れ着いてきたシリア難民の青年の話だ。その青年と偶然出会い関わるようになった人達は、「外国人だから」といった壁を一切設けず、善意を持って彼を手助けする。自分が金銭的に苦しくても、助けることによって社会的な制裁を加えられる可能性があっても、そんなことは気にせずに振る舞う彼らがひたすらカッコ良い、そんな映画だった。

 

この映画に出てくる人は、名前も知らない、国も違う、得体の知らない青年を「自分と関係のある」人だと思って接しているようだ。今の僕では恐らく、そのような青年を「自分と関係がある」人だと考えられないと思う。でもそんな自分を変えたい、とこの映画を観て思った。手助けをする市井の人々は、社会的地位は必ずしも高いといえないかもしれないが、そんなのは関係ない。あの人達みたいになりたい。

 

僕自身は、今はまだ、募金を集めている東南アジアの人を「自分と関係のある」人だと自然には思えない。でも、日本に来たけどお金がなくて生活できない人を、そう思えるようになりたい。そのためにも、映画を観て、本を読んで、旅に出るコトを自分に人生の基盤にすべきなのだ。

 

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恋愛映画の定義は「目と目が合った瞬間から何かが始まる映画」

大学時代に朝まで麻雀をした後、8回生の先輩と松屋で映画の話をよくしていた。
 
その時の何気ない会話を、最近ふと思い返して反芻している。
 

タイトルのセリフも松屋での会話の一つ。

 

目と目が合った瞬間って一体なんだろうか?

 

よく見かける、会話シーンでの切り返しも視線が交差しているといえばそうなんだけど、でもやっぱりそれは「目と目が合った瞬間」ではないんだと思う。

 

僕が、「目と目が合った瞬間」が確かにあると感じた映画を一つ挙げるとすれば、青山真治の『東京公園』だ。その瞬間とは、血の繋がっていない姉(小西真奈美)と弟(三浦春馬)がキスするシーンのこと。あれは、何回観てもこみ上げてくるものがある。画像3

(C)2011「東京公園」製作委員会

 

最初観た時は、なんでこんなにもグッとするのか分からなかったけど、松屋でこの話をして何となく分かった気がする。

 

そういえば、最近『紙の月』を観返して友人と話をしていたのだけど、お互い良かったシーンに「池松と宮沢りえがホームを挟んで出会う」を挙げて盛り上がった。

 

あれも確かに「目と目が瞬間」だったなぁ。

 

「目と目が合った瞬間から何かが始まるのが恋愛映画」って端的で分かりやすくて、良い表現だなと、今さらながらその先輩を尊敬する。

 

おわり

 

に書いた日記を転記しました~

『TOKYO!シェイキング東京』  フィクション性を稼動させる画面作り

【感想】

ストーリーに関しては苛立ちを感じさせる箇所が散布しており、多くのものが欠落しているこの映画だが、フィクションとして徹底的にやり切ったという点で、私はこの映画を賞賛したいと考えている。字面に起こしてしまうと面白さが一抹も見えてこないため書くことが憚れるが、簡単にあらすじを記す。

 

・あらすじ(ネタバレ)

香川照之演じる男性は、親からの仕送りに頼り10年間家から出ずに暮らしている。デリバリーを頼み生活を続ける中男性は一度も人と目を合わしていなかったのだが、ある日、蒼井優演じるピザ屋の配達員のガーターベルトに意識を奪われ目を合わせてしまう。その時、地震が起こり彼女は倒れてしまう。そして介抱する男性が彼女の身体にあるボタンのようなモノを見つけて押すと、彼女は何事も無かったように、立ち上がり帰って行く。 

彼女の事が気になり、毎週土曜日に必ず注文していたピザの習慣から外れ、二日後の月曜日に注文してしまう。しかし、配達員は彼女ではなく、竹中直人演じる気骨の荒い配達員だった。彼女はどうしたかと尋ねると、「昨日辞めてしまった。彼女は永遠に家から出ないそうだ」と答える。男性は迷った挙句、配達員から聞いた住所に行くため、次の日10年ぶりに外に出る。 

外には人っ子一人いず、都市部の交差点も無人だった。男性は、何人かの引きこもりとピザの配達をするロボットを見かけた後、ガーターの配達員を見つける。男性が、出て来て下さいと懇願するが女性は固く断り押し問答になった時、二回目の地震が起こる。

家に篭っている人達が外に出てきて、地震が収まると皆また戻っていく。配達員も外に出てきて家に戻ろうするが、男性に「戻らないで下さい」引き止められる。配達員は「触らないで」と拒絶するが、男性に、身体にある[love]というボタン押され立ち止まる。そして、2人の視線が再び交錯した時、3回目の地震が起こる。

 

・欠落した世界、感情

この映画は明らかな欠陥により、感情移入を極端に拒絶している作りになっている。欠落のうち、重要な要素を、ここで二つ挙げる。一つは、中間世界の欠落である。

劇中内のNAやテロップで主人公を「引きこもり」と説明しているのに、私があらすじでその表現を避けたのは、この主人公は引きこもりではないからだ。家から外に出ていない=引きこもりとNAにより説明があるだけで、生活の細部は見えてこない。この映画は、地震が多発し引きこもり続出している近未来世界と10年間引きこもっている男という設定が存在しているだけで、そこに人々が生きている確実性が全く感じられない。 

世界感が崩壊しているうえ、もう一つの欠陥として登場人物の感情も欠落しているのだから、物語として消費しようとした場合目もあてられない。初めて視線が交錯するのはガーターベルトがきっかけで、最後にまた視線が交錯するのは[love]というボタンを押すという描かれ方は、多くの観客「何じゃそりゃ」と呟いたことだろう。人の心は単純だというかたちで擁護しようものなら即座に紛糾されてしまうような、現実性から乖離した感情動機がこの映画を覆い尽くしている。

 

・絵巻的画面構成

しかし、私はこの映画が面白かった。それは、映画の内側に入るが冷めてしまい遠くの場所から観らざるを得ない凡庸な映画ではなく、強制的に画面の外側に観客を追い出しジオラマを観るようにこの映画を観て下さいと最初の段階で提示している映画のため、欠落部分が気にならず蒼井優のエロスや様々なメタ表現を十分に堪能できたからだ。

どうのように、観客が客観的に観ることを強制するのか。それは、画面の縦広がりではなく横広がりだけ徹底的に求めた、画面構成から生ずる。スクリーンに映っている以上の空間を広げるため、カメラをどうすれば役者をどう動かせばいいのかと模索と挑戦をしている一群の映画作家の姿は、何本か映画を観ると必ず感じるだろう。しかし、その空間の広がりは、縦への広がりばかりなのである。なぜか。それは、縦のスクリーンである縦シネマの方が人物の動きをより生成するように、縦の広がりを感じると人々リアル感を感じるという現象のためである。おそらく映画作家の多くは、映画内に現実に近い感覚を生じさせる身体性が存在する映画の方が、強度が強いと考えているだろう。蛇足であるが、リュミエールという全く何も起こらない映像にも、面白さを感じるのはそこから起因すると思われるということも、付け足しておこう。

 

では、『TOKYO!シェイキング東京』にみられる横広がりはどういったモノなのか。それはフィクション性の提示である。人々はこの横に広がる画面を観て、類似のメディアとして絵巻を想起するだろう。純物語性のある絵巻を画面に感じた時、これはフィクションだと人々は無意識に自覚する。

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(↑ネットの拾い画像です)

・アニメ漫画の影響

さらに、画面構成からは、漫画やアニメ性も読み取れる。カメラは、一つの空間を描いているのだけなく、Photoshopのようにレイヤーとして役者・小道具・背景を配置している。このような画面の工夫から、フィクション性は加速し、スクリーンに中の物語観ているという実感が最初の方から沸いてくる。そして、俯瞰して観ること強制される。

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(↑これも、ネットの拾い画像です……すみません) 

 ・窮屈なTOKYOの提示

では、客観的に俯瞰した時に何が見えているのか。それはこの映画の窮屈からの開放という構造であり、そして私はそこに美しさを感じた。役者を移すときに頭切れのドアップで撮っているのも、そうだが家の中は非常に窮屈に撮られている。そして上記で挙げらたレイヤーの配置は、画面の隅々まで置かれていて、序盤(家から出るまで)にぬけがあるショットは何一つ無い。この窮屈な画面は家から出ていないことの暗示であり、外に出たら開放されるはずだと私は思った。しかし、外に出て抜けがあるショットが出てきても、窮屈な感じは消えない。都市部の交差点を、超遠近で撮っていても消えないのである。そこから、見えてくるのは「東京」という場自体の窮屈性だった。

だが、最後に蒼井優と対峙するシーンで窮屈から開放される。蒼井優香川照之のカットバックは前半と変わらずドアップで顔の画面占有率は非常に高いが、蒼井優のショットはなぜかぬけている。窮屈な東京にいる蒼井優が醸す希望があるラストシーンは、必見である。

 ・終わりに

これ以外にも、小さい様々な工夫がこの映画にはある。例えば、香川照之竹中直人の横対峙のカットバックだったり、序盤のジャンプワンショット。この映画を観て、「何て自分はカメラに対して考えてないのだ」と痛感した。映像制作に興味がある人には、お勧めの一本です~。                                 

終わり

 

Sep 9, 2012 6:16 amに書いた記事を転記しました