ひき出しのようなブログ

主に映画の感想。忘備録のようなもの。

『TOKYO!シェイキング東京』  フィクション性を稼動させる画面作り

【感想】

ストーリーに関しては苛立ちを感じさせる箇所が散布しており、多くのものが欠落しているこの映画だが、フィクションとして徹底的にやり切ったという点で、私はこの映画を賞賛したいと考えている。字面に起こしてしまうと面白さが一抹も見えてこないため書くことが憚れるが、簡単にあらすじを記す。

 

・あらすじ(ネタバレ)

香川照之演じる男性は、親からの仕送りに頼り10年間家から出ずに暮らしている。デリバリーを頼み生活を続ける中男性は一度も人と目を合わしていなかったのだが、ある日、蒼井優演じるピザ屋の配達員のガーターベルトに意識を奪われ目を合わせてしまう。その時、地震が起こり彼女は倒れてしまう。そして介抱する男性が彼女の身体にあるボタンのようなモノを見つけて押すと、彼女は何事も無かったように、立ち上がり帰って行く。 

彼女の事が気になり、毎週土曜日に必ず注文していたピザの習慣から外れ、二日後の月曜日に注文してしまう。しかし、配達員は彼女ではなく、竹中直人演じる気骨の荒い配達員だった。彼女はどうしたかと尋ねると、「昨日辞めてしまった。彼女は永遠に家から出ないそうだ」と答える。男性は迷った挙句、配達員から聞いた住所に行くため、次の日10年ぶりに外に出る。 

外には人っ子一人いず、都市部の交差点も無人だった。男性は、何人かの引きこもりとピザの配達をするロボットを見かけた後、ガーターの配達員を見つける。男性が、出て来て下さいと懇願するが女性は固く断り押し問答になった時、二回目の地震が起こる。

家に篭っている人達が外に出てきて、地震が収まると皆また戻っていく。配達員も外に出てきて家に戻ろうするが、男性に「戻らないで下さい」引き止められる。配達員は「触らないで」と拒絶するが、男性に、身体にある[love]というボタン押され立ち止まる。そして、2人の視線が再び交錯した時、3回目の地震が起こる。

 

・欠落した世界、感情

この映画は明らかな欠陥により、感情移入を極端に拒絶している作りになっている。欠落のうち、重要な要素を、ここで二つ挙げる。一つは、中間世界の欠落である。

劇中内のNAやテロップで主人公を「引きこもり」と説明しているのに、私があらすじでその表現を避けたのは、この主人公は引きこもりではないからだ。家から外に出ていない=引きこもりとNAにより説明があるだけで、生活の細部は見えてこない。この映画は、地震が多発し引きこもり続出している近未来世界と10年間引きこもっている男という設定が存在しているだけで、そこに人々が生きている確実性が全く感じられない。 

世界感が崩壊しているうえ、もう一つの欠陥として登場人物の感情も欠落しているのだから、物語として消費しようとした場合目もあてられない。初めて視線が交錯するのはガーターベルトがきっかけで、最後にまた視線が交錯するのは[love]というボタンを押すという描かれ方は、多くの観客「何じゃそりゃ」と呟いたことだろう。人の心は単純だというかたちで擁護しようものなら即座に紛糾されてしまうような、現実性から乖離した感情動機がこの映画を覆い尽くしている。

 

・絵巻的画面構成

しかし、私はこの映画が面白かった。それは、映画の内側に入るが冷めてしまい遠くの場所から観らざるを得ない凡庸な映画ではなく、強制的に画面の外側に観客を追い出しジオラマを観るようにこの映画を観て下さいと最初の段階で提示している映画のため、欠落部分が気にならず蒼井優のエロスや様々なメタ表現を十分に堪能できたからだ。

どうのように、観客が客観的に観ることを強制するのか。それは、画面の縦広がりではなく横広がりだけ徹底的に求めた、画面構成から生ずる。スクリーンに映っている以上の空間を広げるため、カメラをどうすれば役者をどう動かせばいいのかと模索と挑戦をしている一群の映画作家の姿は、何本か映画を観ると必ず感じるだろう。しかし、その空間の広がりは、縦への広がりばかりなのである。なぜか。それは、縦のスクリーンである縦シネマの方が人物の動きをより生成するように、縦の広がりを感じると人々リアル感を感じるという現象のためである。おそらく映画作家の多くは、映画内に現実に近い感覚を生じさせる身体性が存在する映画の方が、強度が強いと考えているだろう。蛇足であるが、リュミエールという全く何も起こらない映像にも、面白さを感じるのはそこから起因すると思われるということも、付け足しておこう。

 

では、『TOKYO!シェイキング東京』にみられる横広がりはどういったモノなのか。それはフィクション性の提示である。人々はこの横に広がる画面を観て、類似のメディアとして絵巻を想起するだろう。純物語性のある絵巻を画面に感じた時、これはフィクションだと人々は無意識に自覚する。

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(↑ネットの拾い画像です)

・アニメ漫画の影響

さらに、画面構成からは、漫画やアニメ性も読み取れる。カメラは、一つの空間を描いているのだけなく、Photoshopのようにレイヤーとして役者・小道具・背景を配置している。このような画面の工夫から、フィクション性は加速し、スクリーンに中の物語観ているという実感が最初の方から沸いてくる。そして、俯瞰して観ること強制される。

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(↑これも、ネットの拾い画像です……すみません) 

 ・窮屈なTOKYOの提示

では、客観的に俯瞰した時に何が見えているのか。それはこの映画の窮屈からの開放という構造であり、そして私はそこに美しさを感じた。役者を移すときに頭切れのドアップで撮っているのも、そうだが家の中は非常に窮屈に撮られている。そして上記で挙げらたレイヤーの配置は、画面の隅々まで置かれていて、序盤(家から出るまで)にぬけがあるショットは何一つ無い。この窮屈な画面は家から出ていないことの暗示であり、外に出たら開放されるはずだと私は思った。しかし、外に出て抜けがあるショットが出てきても、窮屈な感じは消えない。都市部の交差点を、超遠近で撮っていても消えないのである。そこから、見えてくるのは「東京」という場自体の窮屈性だった。

だが、最後に蒼井優と対峙するシーンで窮屈から開放される。蒼井優香川照之のカットバックは前半と変わらずドアップで顔の画面占有率は非常に高いが、蒼井優のショットはなぜかぬけている。窮屈な東京にいる蒼井優が醸す希望があるラストシーンは、必見である。

 ・終わりに

これ以外にも、小さい様々な工夫がこの映画にはある。例えば、香川照之竹中直人の横対峙のカットバックだったり、序盤のジャンプワンショット。この映画を観て、「何て自分はカメラに対して考えてないのだ」と痛感した。映像制作に興味がある人には、お勧めの一本です~。                                 

終わり

 

Sep 9, 2012 6:16 amに書いた記事を転記しました