ひき出しのようなブログ

主に映画の感想。忘備録のようなもの。

飲み会の憂鬱 ~喋ることに憶病になった27歳~

仕事終わりに、仕事とは関係なく現在動いているプロジェクト(というと大そうなモノに聞こえるが無駄の極致のプロジェクト)のメンバー達と居酒屋に行った。

12、13人いた場だったのでトークテーマもコロコロ変わっていたけど、基本自分は話を聞く、受けの立場にまわっていた気がする。楽しかった。確かに楽しかった。けど、帰宅してから振り返ってみると、「あれ? いつ頃から、こんなにも喋らなくなったんけ」と自分の無口さが奇妙に思えた。

振り返れば、大学生の時はもっとベラベラと自分語りをしていた気がする。7.8年前の僕は、「俺、洋楽が好きやねん」と話して、「えー何が好きなん」って聞かれたとき、「ニルヴァーナ」ってすまし顔で答えてしまう類のピュアさがあったんやと思う。自分がどう受け止められるか客観視できてないが故の突進力。人によっては嫌われてたけど、僕の人となりを知ってくれて好いてくれている人も確かにいた。けど、今はどうなんだろう。無味無臭だ。一体誰が今の僕に興味を持ってくれて、もっと仲良くなりたいと思うんだろうか。ずっと「俺のターン!」的な人はやっぱり嫌だしなりたくないし、大学時代の自分には他人がどう受け止めるのか少しは気にしろよ!と言いたいけども、飲み会の席に居ても居なくてもいいような今の自分はもっと魅力がない気がする。

何で、こんなに喋らなくなっちゃったんだろうか。それは、サラリーマンになってから、「俺の話を聞け!」的な人にたくさん会ってきたのが原因かもしれない。話す時間、余地を一切与えてくれない会話の一方通行を何回も何回も経験し嫌な思いをしてきたらこそ、自分が話し始めるときすごく相手を意識するようになったのだ。「喋りすぎかな?」「退屈にしていないかな?」と考えるようになった、これ自体はイイことだと思うけど、自分の場合はそれがイキすぎた気がする。相手に退屈に思われたくないがゆえに、喋ることに怯えてしまっている。なんとも馬鹿げた倒錯だ。

もっと僕を知って欲しい。今の自分は、その気持ちを素直に出していったほうがいいんじゃないだろうか。「相手を知りたい」「自分を知って欲しい」、その両方のバランスがうまく取れた時、会話は楽しくなる。「自分を知ってもらう」ことを放棄していては、深い意味での信頼は絶対生まれないしね……多分。